【JTA】〈独自取材〉うちなーの翼 JTAで働くということ Vol.3
南西航空として1967年に誕生した日本トランスオーシャン航空 (JTA) は、沖縄生まれ沖縄育ちのスピリットが受け継がれている「うちなーの翼」として〝沖縄に一番必要とされるフルサービスキャリア〟を目指して飛び続けています。
JTAで働いている人たちが〝JTA IZM〟を胸に、どのような想いで業務されているのか。 Aviation Picks が迫ります。
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〝JTA IZM〟Data 003
増尾 圭輔(ますおけいすけ)さん
運航乗員部737-800第2乗員室第2グループ
ボーイング737-800型機 機長
2008年1月入社
【パイロットになりたい】
「パイロットになりたい」。
そう中学の卒業文集に書いたという増尾さん。大学では教育学部の地球環境課程で環境問題について学んだ。その後、航空大学校へと進む。
ところが、現実は挫折や失敗の連続だったという。苦い思いもいっぱいしてきた。
しかしながら増尾さんは
「逆境であっても笑顔で乗り越えたいと思い、下を向かずに生きてきました」
とあくまでも自然体で語った。
さらにパイロットの仕事については
「出たとこ勝負の仕事ではないのです」。
つまり、いかにして地道に準備をして臨むか、それに尽きるという。
また、航空大学校時代から〝縦のつながり〟の重要性を感じており、いかに先輩から気にかけてもらえるか。そして、先輩から教えていただいた大事なことを、同期や仲間と共有できるか。
そういった人柄の部分も、パイロットとしてとても大切な資質であると痛感している。
【マンゴー救出大作戦】
航空大学校を卒業する際、第一志望はJTAだった。それは大学時代に地球環境を学んでいる時、ゼミの教授がマングローブの研究をしていたことから、西表島にはよく訪れていて、沖縄の自然に魅せられていたからだという。
うちなーの翼として沖縄地方を飛ぶ際、ドピーカンのパイロットビューは
「それはもう格別です!」と笑顔で語った。
また、沖縄の空港で3月末ごろによく展望デッキなどで目にする
〝新天地へ向かう子どもを見送るお手振りシーン〟。
これにはやはり胸に迫る想いがあるという。普段から心がけていて当たり前ではありながらも
「さらに安全にお届けしますよ!」
という気持ちになる。
ところで、JTAにとってコロナ禍は例外なく大変な時期であった。しかしながら、例え旅客数が激減したとしても、農作物やその他の必要物資を輸送するという〝貨物輸送〟の使命を帯びている路線ばかり。
「JTAとしては意地でも路線は切らせませんでした」。
その中で増尾さんが特に思い出深く残っているのが、宮古島に台風が近づき、出荷待ちのマンゴーがダメになってしまう前に沖縄本島へと運び出すミッション、その名も
〝マンゴー救出作戦!〟。
ちなみに、この〝マンゴー救出作戦!〟は増尾さんとコンビを組んだ運航乗務員とそう呼びあっていたそうだ。
なぜならば、台風の接近で風も強くなってきており、状況はあまり良くなかった。
そこで、これは〝マンゴー救出作戦!〟なのだ!!
と気持ちを高めあっていたという。
もちろん、安全第一に冷静さを保ちつつも、そのようにして〝JTAとしての使命〟を果たそうと鼓舞していた素敵なエピソードである。
【明るくあたたかいJTAの風土】
最近ペーパレス化が進み、iPadを見る時間が長いせいか
「視力が低下気味です、、」
と語る増尾さん。
これはエアライン業界全体に抱える問題かもしれない。
さて、JTAの運航乗務員は150人前後だ。そのためそれぞれが顔見知りであり、乗務でも
「初めまして!はほとんどありません」。
その上、
「JTAの社員たちは皆さん明るくてあたたかい」
という。
乗務中、たとえばブリーフィングなどでも
「なんでも言いやすい雰囲気、環境作りには心がけています」
と語る増尾さんの穏やかなこと。
その穏やかであたたかい雰囲気は、JTAの体質そのものといってもいいだろう。
[取材 写真 文 : 深澤 明 @ Ace Photographer inc.]